映画“第三の男”のオーソン ウェルズの台詞。
「イタリアではボルジア家の圧政はあっても、ルネサンスが生まれた。一方スイスは数百年の平和の間に何が生まれたか?ハト時計だけだ。」
オーソン ウェルズは
「最高の旅がしたければイタリア人を巻き添えにしろ」と言ったくらいの人なので、イタリアびいきでもあるのだろう。
ルネサンス自体は終わっても、その流れはどんどん変化、進歩し、これからAIの時代になろうとしている。
一方、ハト時計はともかく腕時計は少しの進歩を続けながら今に至っている。
腕時計の少しの進歩というのは、コンピュータほど爆発的なものではなく、世界の発展にそれほど影響を与えていないということだ。
では機械式時計は取り残されているのか?
答えはNOだ。
文明に対する貢献は終わったかもしれないが、文化、精神に対する期待を今までも担ってきたし、さらに今後期待できる素材であることに変わりはない。
コンピュータがさらに発展すればするほど、さらに日常的になればなるほど機械式時計との感覚的なギャップは増大すればするほど、機械式時計にはむしろその本質は変わらないことが期待されていく。
かつて時計も電気(クォーツ)の時代に変わってしまうぎりぎりのところの機械式時計が踏ん張り、存続したという時代があった。
そして今、コンピュータが進歩すればするほど正反対のものとして、機械式時計の本質は輝きを増し続ける。
つまりコンピュータとは真逆の機械式高級時計というものがまさに時代に取残される寸前だったものが、2つの間のギャップにより価値を上げ続けている。
とにかく利便性の追求という意味で、今まで重宝がられていたものが捨てられ、どんどん新しくなっていくのがこの世の中だ。
しかしその中で機械式時計に対する注目度が上がるのは当然だろう。